「都会で語る里山」シンポジウム質問に関する答え
2023.02.21活動報告
2023年2月3日(金)に開催致しました「都会で語る里山」シンポジウムでご講演いただきました4名の先生方より、みなさまからいただきましたご質問についてお答えをいただきましたので、お知らせいたします。
◆大阪府立大学名誉教授・LAまちづくり研究所 所長 増田 昇 先生へのご質問とお答え
◆NPO法人 いっちんクラブ 理事長 塩谷 寿生氏へのご質問とお答え
◆大阪市立自然史博物館 学芸課長 佐久間 大輔氏へのご質問とお答え
【ご質問】
絶滅危惧種のなかには里山に分布している種類も多いとのことですが、人間がいないとこういう生物は生きていけないということなのですか?
【お答え】
里地里山は、長い歴史の中で、農林業や農村生活に関わる様々な人間の働き掛け(例えば、間伐や除伐、下草刈りや落ち葉掻き、畔刈り、道や水路普請、など)によって形成されてきた二次的自然エリアです。しかし、昨今の電気やガスに依存するエネルギー革命や生活様式の変化とともに高齢化や人口減少などに伴って里地里山の管理方法が大きく変化したり、管理放棄が発生し、これらの二次的自然エリアの環境が大きく変化してきています。これらの環境の変化に伴って絶滅が危惧される動植物が多く見られるようになってきています。例えば、我が国の国土の約4割が里地里山と言われていますが、絶滅危惧種の約5割がこの里地里山に見られることが報告されています。(参考:環境省HP:里地里山と生物多様性)
【ご質問】
最近家の近所の河川敷にアレチウリが増えているが、里山では外来種の植物は問題になっていますか?
【お答え】
ふれあいの森では、草本の類は、ちょっとした空地や樹林エリアの下草として、刈っても刈っても生えてきます。特にネザサ、シダ類、クズ類の繁殖力は大なので、エリアを限って周期的に除伐をしますが、多大な労力を要しています。アレチウリは未だ少ないようです。あまり見かけませんが、注意しています(一昨年 小さな川の堆積土に生えていたのを除伐しましたが)セイタカアワダチソウなども一定のエリアに生えますが、近年はご存じのように全面を征服されることはありません。外来種の草本も、定期的巡回的に除伐している草本のひとつともいえます。
ご質問から外れますが、ふれあいの森の現況としては、「外来種・在来種を問わず、各エリアでの育成対象外の草本は、問題であるともいえます」ので、計画的に手入れ(刈取り)をしています。森の手入れの半分くらいの工数を草刈に投入していると思われます。なかでも、量的にはネザサ、シダが多いです。ここ数年は、クズがネザサの上を覆うようになりやっかいです。
【ご質問】
庭の木が枯れたので、鳥の来る木を植えたいのですが、良いものがあれば、教えていただきたいです。
【お答え】
お客様のお庭の日当たりや土質などの環境条件によって適している木が異なるので一概には言えませんが、よくご提案する樹種ですとヤマボウシ、エゴノキ、ソヨゴなどが挙げられます。下記のHPの中の庭木セレクトブックの26~29ページに「招きたい鳥で選ぶ樹木」というページがあります。218ページ以降には索引があり、それぞれの樹種の掲載ページや5本の樹かどうか、日当たりに対しての耐性、生長スピードなどが載っていますので参考にされてみてはいかがでしょうか。宜しくお願い申し上げます。
積水ハウスの「5本の樹」計画 | 積水ハウス (sekisuihouse.co.jp)
【ご質問】
長居周辺はハンノキが生えていたとのことですが、ハンノキが生えるような湿地でクヌギ等の照葉樹やアカマツといった薪炭林が形成されていたのでしょうか?
【お答え】
結論から言うとかつての長居周辺にはアカマツやクヌギの茂る環境=一般的な意味での里山はほとんどありません。照葉樹林が覆うことも難しかったと思います。例外的に臨南寺にはそのような林がありました。
・ クヌギは田んぼの畦などにも植えられているとおり、比較的水辺に強い植物です。なので湿地の周囲や、特に上町台地などに育っていてもその意味ではおかしくないのですが、クヌギを薪のために広く植えるようになったのは明治以降です。江戸期以前も苗木を購入して育てる栽培植物で、どこにでも生える記ではなかったと考えています。薪炭を積極的に生産する地域ではない長居には植えられた可能性は低いでしょう。
・ アカマツは実際には湿地帯でも生えます。京都の深泥池の水苔湿原などにも盆栽のように育ちの悪いアカマツが茂ります。これは人が立ち入らない場所だからこその現象です。しかし、大阪のような人の活動が活発で、木々が切り倒されて利用されるような環境ではアカマツは庭木や社寺林でこそ育っても他では難しいでしょう。
・ 照葉樹林は百年レベルで人の伐採が怒らなければ茂っていたかもしれません特に上町台地の上面・斜面などは照葉樹もあったでしょう。縄文時代晩期は海が引き始めて陸化した生駒山の裾に照葉樹が見られます。しかし万葉の時代、難波の宮すら立地したような人間活動の激しかった大阪では難しいのではないかと思います。もちろんそれ以降の時代には難しいでしょう。
・ 大阪の多くの低地、梅田や平野(ひらの)などは地下水位が高く、街路樹が育ちにくかったといいます。戦前ぐらいの時代でもクスノキやイチョウなど一部の樹種でようやく緑化できたというレベルです。そうした中にあって上町台地は木々が育ちやすく、スダジイやマツ類、アキニレなどが茂りました。臨南寺もそうした植生だったと思います。臨南寺にはスダジイなど上記の樹木のほか、ケヤキやクヌギも大きな木があったようです。人々が木々を切り倒して利用してしまう事がしばしば起こる都市部においてそうした環境が最近まで残っていたことは貴重なことです。天王寺より南の大阪市域には、臨南寺の他にはほとんどそんな場所はなかったようです。